今日は頼まれごとと対価の話。
お客さん商売をしていると何かと物事を頼まれることが結構ある。これはお客さんからだけでなく知人などからもそう。
ここフィリピンのパラワン島でたくさんの日本人旅行者の手配やゲストハウス、観光局の通訳をして生活している私を見るときっとうまくやってくれると思うのはよく分かるし、頼りにしてくれているの素直に嬉しい。
それにちょっとしたことでもいろいろ面倒で時間がかかったり、何をどうすればいいのか分からないという状態によく陥るのがパルプンテ王国フィリピンなのでちょっとしたことでも困る気持ちも経験から共感できる。
なので出来るだけ頼まれごとは徳を積むという気持ちで受けるようにしている。
ただもちろんそれが頻繁になるとちょっと話が変わってくる。
頼む側の人は年に一回だったとしても、仮にそんな人が365人いたら私の一年間はボランティアで終了することになってしまう。
先日、確かイタリア人の同時通訳者(日本語⇔イタリア語)がこんな主旨のツイッターをしているのを見かけて考えることがあった。
”30分だけオンラインでの同時通訳を日本人から頼まれた。その依頼主はオンラインだから自宅で移動も不要だし、30分だけだし、今コロナで予算があまりないから無料でやってくれないかと言ってきた。
この考え方はおかしいよね。だって30分だろうが私がどれだけの時間と努力をして仕事で使えるまでの日本語をマスターしたか、それにコロナで仕事が減ったのはあなただけではない”
これは確かにと納得する部分があった。もちろんビジネス上の付き合いで今回だけお願い!という感じの慣習は存在する。ただもしそんな関係性であればそのイタリア人もこんなツイートはしなかっただろう。
誰かの時間を使うというのは原則それに見合う対価を払う必要がある。それにこの件の根本は時間の問題ではない。このイタリア人が納得できないのはきっと別の部分にある。
これは自分に置き換えるとよく分かる。
私も異国の地であるここフィリピンで最初からうまくやって来た訳ではない。
法人などの後ろ楯や、フィリピン人のことを良く知っている現地の奥さんやアシスタントがいるわけでもない中でトライ&エラーを一人で繰り返して手に入れたお金では買えない大切な経験やノウハウは私の財産なのである
トライと言っても実際は全然カッコいいものではない。
ここは上手くやならければというプレッシャーや誰も助けてくれないという弱気がチラつく中で準備と作戦を練り、アウェーな場所に飛びこむのである。
しかもフィリピンでは日本のようにどこでも最低限の礼儀と誠意ある対応をしてくれる訳ではない。
時には話しかけても放置されたり、適当なことを言われたり、相手が悪いとタガログ語でまくし立てられたり、笑われたりして惨めな気持ちになることだって多々あった。(誤解のないように念のため付け加えておくと優しいフィリピン人もたくさんいます)
ちなみに私が現地のタガログ語を勉強したのはそれが大きなきっかけ。やっぱりフィリピンとは言え英語は外様言語。現地語を話すかどうかで様々な場面で大きなメリットがある。
今も全然流暢なレベルにはではないが、それでも日常会話から役所の手続き、何か問題や不誠実なことがあった時には自分の主張や正義を強く言って相手に納得してもらうことくらいは出来る
まぁトラブル時は「勢い」というのもが実際大事だったりするのだが、それは言葉があるレベルまで出来るという前提があってのこと。
こんな言葉の話をすると数年住んでいれば自然と分かるでしょ?という人がいるが、それが出来るのはきっと本当の天才か特殊能力者だけだろう。
それに学生の頃に習った英語と違い、イエス、ノーすらもまったく知らない未知の言語をゼロから学ぶ苦労はその経験がある人でないと分からない。
ちょっと話がそれてしまったが、無償の頼み事だとしても、使うのは単に時間と労力だけではなく本人が時にはつらい思いをして手に入れた経験やノウハウ、言葉などの無形の財産も含まれるのである
イタリア人はこれを「軽く」みられていることに納得がいかないのである。これには個人的によく共感できる。
簡単な頼み事でもフィリピンでは手間が何かとかかる。それに本当に簡単なら私にお願いする必要はないので、簡単という認識自体が間違っている。正解は「私には簡単かもしれないが普通は難しい、もしくは相当の手間や遠回りが必要になる」である。
ただもちろんこんな恩着せがましいことは普段は一切言わない。それどころか「大した苦労なんてないですよ、フィリピンなので適当にやってれば何とかなるんです(笑)」という感じで話すことがほとんど。
そこをそのまま受け取ってしまうか、それとも裏側まで考えが至るかは人それぞれ。
ただ私の場合は本当に無償で物事を引き受けることはある。
それには理由があって、自分の興味のあることだったり、これは良い経験になると判断した場合は本当に一切の見返りなしでやる。
この場合は知りたいことが分かったり、新たな経験値が手に入るチャンスなので勉強という位置づけ。それに最終的には感謝までされるので良いことをしたという満足感も得られるし。
今回は長々と書いてしまったが、別に愚痴を言っている訳ではなく、イタリア人のツイートから仮に徳を積むとか人助けだとしても今までみたい安請け合いは自分の為によくないのではないかと考えるきっかけになったという話。
自分で出来ないことを相手に頼むというのは相手の時間と労力だけではなく、その人が苦労して手に入れたお金では買えない財産をも提供させるということ。これは私自信も自戒を込めてよく理解しなければならないと思う。
まぁでも人間だから感情で動くことはあるし、やっぱり見返りを求めず徳を積むというのも悪いことではないとも思う。
おわり
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